2024/04/25 12:57

ネパール地震発生

9年前の今日(2015年4月25日)、ネパールの首都カトマンズ北西77km付近、ガンダキ県ゴルカ郡サウラパニの深さ15kmを震源とするM8を超える地震が発生しました。建物の倒壊、雪崩、土砂災害などにより、死者8,460人、負傷者2万人以上の甚大な被害となり、近隣のインド、バングラディシュ、チベットにも人的被害が及びました。昔の教え子は幸いにも日本に居て無事でしたが、私の心に深く浸み込んでいた景色が見るも無残な姿になってしまったことにショックを受け、大きな喪失感にさいなまれました。
そして、ちょうどその一年後に熊本地震が起きました。(ブログ「熊本地震から8年」)

文殊菩薩のパワー

ネパールは、北は中国、南はインドと国境を接する小さな国です。南からインド亜大陸がユーラシア大陸に衝突してシワになって盛り上がった地帯ですが、シワと言ってもヒマラヤ山脈と言う巨大なシワで、サガルマータ(エベレスト)を始めとする8,000メートル級の山々が鎮座しています。

首都のカトマンズは山梨県の甲府盆地とよく似た景色の盆地です。その昔、大きな湖の南側の山を文殊菩薩が刀で切り、湖の水を外に流してできたのがカトマンズ盆地だと聞いたことがあります。私は単なる神話だと思っていましたが、実際にカトマンズ盆地は平均深さ数百mの湖底堆積物と河川堆積物で形成されていて、きわめて地盤が軟弱な土地なのだそうです。と言うことは、カトマンズ盆地は本当に湖の底だった時代があり、インド亜大陸の衝突によって、徐々に盆地全体が押し上げられ、南側にできた亀裂から湖の水がこぼれ落ちてで湖底が露出したのかもしれませんね。

このインドプレートがユーラシアプレートに衝突して山脈を形成することを「ヒマラヤ造山運動」と言いますが、文殊菩薩のパワーとも言える巨大な地球のエネルギーによって、ネパールでは地震が発生しやすく、軟弱地盤のカトマンズ盆地に大きな被害をもたらしているわけです。遠い昔の話になりますが、私はその文殊菩薩のパワーを実感したことがありました。

幻の王国を探して

カトマンズの日本語学校が正月休みに入ったので、私はオートバイで東に200㎞ほどのところにあるポカラと言う村に向かいました。なじみのホテルにオートバイを預け、ドコと言う農業用のカゴに必要なものを詰め込むと、僧侶に扮して北に向かって歩き始めました。ヒマラヤ山脈を抜けた中国との国境にほど近いところに、ムスタン王国(ローマンタン)と言う幻の王国があると言う噂を聞き、どうしてもこの目で見たくなってしまったからでした。

後に、やらせ騒動となったNHKのカメラが入る1年以上前のことです。

そこには地球の脈動が

地図もコンパスも持たない私は自分の勘を頼りに、こぶし大の石が飛んでくるほどの向かい風を受けながら、カーリー・ガンダキ川沿いをひたすら北上しました。切り立った渓谷に向かって続く川の両岸は、地層が剥き出しになっていて、大きく傾斜したり、激しくねじ曲がったりと、地球の壮大な営みの痕跡を見て取ることができました。その景色はまさに、マラヤ山脈が褶曲(しゅうきょく)山脈であることの証といえるものでした。


河原には角の取れた大小様々な石が延々と続いており、非常に歩きづらく、何度もねん挫しそうになります。それらの石の中には艶のある真っ黒なものがあって、注意深く割ってみると中からアンモナイトの化石が出てきます。つまりこの標高3,000メートル近い河原は、2億年前までは海の底だったと言うわけです。
今もなおインド亜大陸は年間およそ45ミリのスピードでネパールを押し続け、年間およそ5ミリずつヒマラヤ山脈が隆起しているそうです。ちなみに、フィリピン海プレートがユーラシアプレートに沈み込んでいる南海トラフ付近では年間およそ40ミリほど、太平洋プレートが北米プレートに沈み込んでいる日本海溝付近では年間およそ80ミリほどのスピードで動いています。

太古から人間には抗うことのできないスケールで続く地球の脈動。その上で現代人はどのように生き延び、生き続けるのか。地球に生まれ、地球に生きるものとして当然の課題に、種三郎商店はこれからも取り組んでいこうと思います。

最後に、ネパール地震によって犠牲となられた方々に哀悼の意を表するとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞いを申し上げます。

Never End Pease And Love
ネパールよ永遠なれ



その後

余談ですが、早朝から日が暮れるまで毎日歩き続け、出発してから14日後にようやくムスタン王国(ローマンタン)に到着しました。ネパールの警備隊が下山している極寒のこの時期を計画的に狙った訪問だったため、入国を拒まれることもなく、王国の人々からとても歓迎されました。ネパール国内にあって自治権を認められているこの王国は、日干し煉瓦を積んだ白い城壁に囲われており、城内には小さな商店や郵便局などもありました。

あいにく国王夫妻は別の村に出かけていて不在だったため、食事を提供できる家を村人から紹介され、そこに一泊しました。ここまでの道中ずっとそうでしたが、お金よりも水や塩や食料の方が貴重な世界に暮らすヒマラヤの人々は、見ず知らずの無謀な旅人を拒むことなく歓迎し、自分らの限りある食料を分け与え、温かい寝床を提供してくれました。帰路でネパールの警備隊と鉢合わせするのが心配だったので、翌朝は早々に城門を出て王国を見下ろす高台のゴンパ(仏教寺院)を参拝しました。参拝が終わると客間に通され、中国製のお菓子(麻花児)とバター茶でもてなしてくれました。これに記帳してくれと言って僧侶が持ってきたノートを見るとアメリカ人のサインがあって驚きましたが、日本人の参拝者が来たのは初めてだとのことでした。